この時代のAMGは
今なおユーザーを刺激する
AMGの歴史から
人気の理由を探る
車両解説の前に、80~90年代のAMGといったいどんなモデルだったのか。なぜこれほどまでに多くのユーザーがこの時代のAMGに憧れを抱くのか。その答えは、AMGが歩んできたヒストリーの中にあった。
まず黎明期のAMG社は単なるチューニングショップのような存在で、素材としてメルセデス・ベンツを選んだに過ぎない。まだコンプリートカーなどもなく、ユーザーによって持ち込まれたクルマをチューニングしたり、そのためのパーツを開発したりしていた。これが第一世代のAMGであるとしよう。
その後、独自のレース活動や高いチューニング技術によってビジネスを拡大し知名度を高めたAMGは、エアロパーツや内装などにもスペシャルメイクの幅を広げ、コンプリート化されたモデルが登場する。ここではロリンザーやブラバスなど他のチューナーと同様、メルセデスの象徴であるスリーポインテッドスターは取り外され、AMGのエンブレムが随所に取り付けられていた。これは商標権に対する配慮でもある。グリルはブラックアウトされ、見た目も通常のノーマルモデルとは大きく異なっていた。
88年になるとメルセデス・ベンツがワークス体制でツーリンクカーレースに復活することが決まり、その協力をAMG社に求めて来る。両社の本格な協力関係がスタートするわけだ。そして90年には正式に提携を結ぶ。ここまでが第二世代である。
その後、両社の関係は急速に深まり、93年には共同開発モデルのC36がデビューする。この頃になると、グリルのペイントはなくなり、メルセデスのエンブレムもそのまま残されるようになる。さらに1つ上のクラス、例えばEクラスであればSクラスの最大排気量である6ℓを超えないこと、という紳士協定が結ばれ、ごく一部の限定モデルは例外として、AMGの排気量が制限されるようになった。またAMG製ユニットの大量生産もスタートし、AMGのエンブレムを持つMクラスやCLKなど数多くのバリエーションモデルが登場する。これが第三世代としよう。
そして99年にはいよいよメルセデスの傘下に入り、完全に統合された形となる。モデル名も「AMG E55」という従来のものから「E63AMG」のようにグレード名が先に表示されるようになり、各クラスのラインナップに取り込まれた。これ以降のモデルが第四世代だ。
ではどこまでが純血のAMGなのか。これについては色々と意見が分かれるところだとは思うが、やはり92年頃まで。グリルがブラックアウトされていた世代こそが、ハンドメイドのチューニングカーとしてのAMGだろう。第三世代はメーカーコンプリートへの過渡期であって、第四世代になると完全に「メルセデスAMG」になったと言っていいだろう。
そう考えると、今回紹介するW124をベースとするAMGモデルは第二世代のAMGということになる。チューナーとしてのAMGが色濃く反映されていた時代のW124である。
取材車はAMG300E 3,2。W124前期のAMGモデルは、大きく2つに分類できる。直6をファインチューンしたモデルと、V8を詰め込むことで圧倒的なパフォーマンスを得たモンスターがそれだ。
まず直6系モデルのベースは300EのM103ユニットで、当初は排気量を3.2ℓに拡大したものだったが、90年にDOHCの300E-24が登場するとこれを3.4ℓに拡大した300E3.4が登場する。そしてV8系が、500Eのルーツとも言われる、ハンマーユニットを積んだ300E6.0-4Vである。
取材車は前期型の直6モデルであり、メカニカルチューニングによって排気量が拡大されている。往年のメルセデスらしい重厚なフィーリングを持つM103ユニットだが、AMGによってパワフルな走りを披露する。ボディにはAMG専用のエアロパーツが装着され、トランク一体式となるスポイラーはこの時代のAMGを象徴するもの。その他、アルミホイール、マフラー、足回りなどが専用品となっており、ノーマルのW124とは全く違うスパルタンな雰囲気が感じられる。以前はこの時代のAMGを探すのにそれほど苦労はしなかったが、中古車の流通量が減少している現在では希少な存在となっている。
このクルマを販売しているトータルアクセスは、この時代のメルセデスに強い専門店。自社工場にはベテランメカニックが在籍しており、購入後のメンテナンスも安心して任せられる。チューナー時代の荒削り感が残るAMGを手に入れるチャンスが少なくなってきた今だからこそ、所有する満足感は高いはずだ。
維持は大変なの?
1992y AMG 300E 3.2
スペシャルモデルであるAMGだけに、メンテナンスもノーマルに比べて大変だと思うかもしれない。だが、基本的な方向性や手間は変わらない。
部品が揃う内に
大物を修理しておく
80~90年代のAMGはモデルによって多少違いがあるが、基本的にエンジン、ショックアブソーバー、スプリング、スタビライザー、マフラー、デフのファイナル、エアロパーツといったところがノーマルと異なる部分。これらのパーツは経年劣化により消耗していくので、ノーマル同様に定期的なメンテナンスが必要になる。つまり基本的な部分においては、メンテナンスの方向性や手間はノーマルと変わらない。
大きく違うのは専用パーツの価格。足回り関係のパーツについてはノーマルや社外品の流用ができるので工夫次第で維持費を抑えることができるが、エンジン内部のトラブルは費用も大きくなる。例えばヘッドガスケットは10万円以上となっており、内部のピストンなどがダメになるとさらに大きな出費になる。
最初から出費のことを考えてしまうとどうしてもネガティブになってしまうが、こうした最悪のパターンを防ぐためにどうすればいいかを考えるべきだ。
例えば油脂類の交換サイクルを守ることや定期的な点検など、エンジンを壊す人ほど日頃のメンテナンスが疎かになっているケースが多い。油温や水温を最適に保つことで、高価なパーツを使っているエンジンを守ることができる。そもそもベースとなっているメルセデスのエンジンは頑丈なので、一般的な使用においてエンジンが壊れるというのは希なケース。やはり、AMGと言っても基本が大事なのだ。
旧世代AMGでは経年劣化に加えて、これまでのメンテナンス状況が大きく影響してくる。ノーマルでもそうだが、クルマ全体のリフレッシュが必要な時期に来ており、これまであまり手を入れてこなかった部分に注意する必要がある。旧世代AMGと長く付き合うなら、エンジンヘッドやATのオーバーホールといった大物修理も検討すべきだろう。パーツが供給されているうちに、大物整備は済ませておくべきである。旧世代の一部モデルでは希少価値が高まり相場が上がっているというから、大切に乗り続けてほしい。
日本におけるAMGヒストリー
クルマが乗り手を選ぶ
という時代だった
1980~1990年代、日本におけるAMGとはどんな存在だったのか。当時、よく聞いたエピソードを交えながら紹介していこう。
「アーマーゲー」と
呼ばれた時代が懐かしい
1980年代に入ると日本でも並行輸入業者によってAMGが販売されるようになる。当時のAMGは「アー・マー・ゲー」と呼ばれマニアの間で大ブームとなった。本来ドイツ語では、BMWをベー・エム・ベーと言うようにアー・エム・ゲーと発音するのが正しいのだが、当時ドイツ語なまりのAMGを「アー・マー・ゲー」と聞き間違えて紹介してしまい、その後販売業者やユーザーの間で定着してしまったと言われている。1989年にAMGジャパンが設立されると「エー・エム・ジー」と呼称し統一された。
当時、560SE(C126)がノーマルで1355万円と高額だったが、AMGは倍近い2585万円と一般では手が出ない価格だった。AMGは納車から500kmごとにエンジンの回転数を徐々に上げていく、いわゆる「ならし運転」が数千キロまで明確に指示され、その間1000km走るごとにディーラーでの点検が義務付けられていた。またエンジンの回転数を冷間時に上げないために、水温が40℃を超えるまでアイドリングを続ける「暖機運転」と、走り始めてからしばらくは高回転域を使わない「暖機走行」を奨励。AMGのオーナーズマニュアルには「あなただけの1台。そのためには、初めの調教が肝心です。」と明記されている。今では想像できないが、クルマが乗り手を選ぶのが当時のAMGであり、だからこそ、高いステイタスを得ていたのかもしれない。